竹ヶ鼻城
 竹ヶ鼻城のはじまりは、応仁年間(1467~69)に、竹腰伊豆守尚隆によって築かれたといわれている。その後、天正12年(1584年)5月城主、不破源六広綱の時、10万余騎を率いる秀吉軍に水攻めにあった。水は二の丸まで入り、町家へは3尺余り(1m)も湛水し城内に立てこもる700余人も筏を組んだりして対処したが、いかんともしがたく、源六は、秀吉の申し込みを受託して開城し、伊勢長島の信雄の城へ退去した。
 その後、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前哨戦として、8月22日竹ヶ鼻城は東軍に攻められた。城主 杉浦五左衛門は降伏のすすめを拒否して抗戦したが力つき、城に火を放って自害した。以後、城は消滅した。
 
竹ヶ鼻城の水攻め
 当時の羽島市一帯は、尾張の国で、織田信雄の支配下にあった。竹ヶ鼻城主不破源六は30,000石を領有していたが、秀吉とも親交がありどちらに味方するか迷っていた。城中で大評定を開いて家臣の意見を聞いたところ「信長公以来の恩義にむくいるべし」との意見が多く、源六は信雄に従うことにした。長久手の一戦で敗北した秀吉は、徳川家康との決戦を考え、長島城の信雄を攻める作戦に変えて、戦場を西に移し、信雄方の加賀野井城と竹鼻城を攻撃の的とした。10萬余騎を率いる秀吉軍は、天正12年(1584)5月6日加賀野井城を総攻撃し1日で落城させると、今度は竹鼻城に信雄・家康を引き出すための長期戦の構えを見せた。地形を見聞きした秀吉は、木曽川の支流足近川に目をつけ、水攻めの作戦を実施した。
 竹鼻の東には足近川とつながる逆川が流れており(当時は南流していたと思われる)、その堤にそって町家が続いていた。水攻めはこの逆川堤を利用して、町家ぐるみ城を長堤で囲むことにした。まず竹ヶ鼻城の北1kmにある間島村の砂山に付城(戦闘指揮所)を築かせ本陣とした。ここは後に「太閤山」といわれた。
 築城工事は、5月11日より5~6日の間に実施された。高さ6~7間(約10.8~12.6m)、巾14~15間(約25.2~27m)の堤が、城を中心に北は間島から西ヘ半円を描いて、松山・本郷・淺平の各村をまわって、南は江吉良で逆川堤に接続する長さ2.6kmの長堤であった。これが太閤の一夜堤といわれるものである。
 旧暦5月は雨が多く、足近川もちょうど増水し、この水を一夜堤の中に入れたので、水は二の丸まで入り、町家は3尺(1m)も湛水した。700余人が立てこもる城内では、筏を組んだり、木立の上に葦簀を張ったりして対処したという。町家では逃げ場を失ったねずみやへびなどが押し寄せ、婦人子どもはこれに苦しんで死ぬものも多かったという。
 竹ヶ鼻城では何度か信雄や家康のところへ救援の使者を送ったが援軍は現れなかった。ついに6月10日にいたり、城主不破源六は、秀吉の申し出を受諾し、営々として築き上げた城も無血開城となり、源六は伊勢長島の信雄の城へ撤退した。
 
 竹ヶ鼻城の炎上
 慶長5年(1600)9月15日は関ヶ原で天下分け目の戦いが始まった日である。これに先立つ同年8月21、22日は木曽川(現在の)をはさんで東西両軍の前哨戦が行われた。岐阜城主織田秀信は西軍石田方についたので、配下の竹ヶ鼻城主杉浦五左衛門は西軍に味方した。
 清洲城を出発した東軍は、二手に分かれて木曽川を渡り、ともに岐阜城を攻める作戦に出た。河田の渡しには池田輝政や浅野幸長ら1万8000人の兵が、下流の起の渡しには福島正則や黒田長政ら1万6000人の兵が、それぞれ8月21日に到着した。
 これに対して織田秀信は、諸将を木曽川右岸に配置し、東軍を攻撃する作戦をとった。上流の米野の戦いは22日の明け方を待って始まった。東軍は次々と木曽川を渡河し、織田方の守備兵を激しく攻めて敗走させ秀信は岐阜城内へと退いた。
 一方下流に向かった正則らの軍勢は、起から渡河しようとしたが、水・砂ともに深く、加えて対岸には、竹ヶ鼻城主杉浦五左衛門や織田の援軍梶川三十郎・花村半左衛門・石田三成の援軍毛利掃部が待機していた。このため、21日夜に船を集めて下流の加賀野井を渡河した東軍は、22日竹ヶ鼻城を攻めた。東軍は町口を攻め破ると、城を取り囲み降伏をすすめてきた。福島正則とは知り合いの間柄の毛利(八神城主)らは、降伏して二の丸に寄せ手を引き込んだ。本丸は孤立したが、杉浦五左衛門は降伏のすすめを拒絶して抗戦を続け、午後にはついに力尽き、城に火を放って自害した。
 米野と竹ヶ鼻城の戦いに勝利した東軍は、8月23日に岐阜城を総攻撃して破り、24日赤坂に集結して西軍の本営大垣城と対峙した。
 竹ヶ鼻は近世に入ってから城のない町となり、城跡も城町の形成で不明となった。
 
竹ヶ鼻城の歴代城主
期  間 城  主 記    事
応仁年間(1467~69)~
文明年代後半(1480頃)
竹腰伊豆守尚孝
(たけこしいずのかみなおたか)
応仁年間に竹ヶ鼻城を築く。竹腰氏は土岐氏に仕え、文亀の頃(1501~4)山城守とその子伊豆守は柳津町にいた。
文明年代後半(1480頃)~
明応5年(1496)
長井豊後守利隆
(ながいぶんごのかみとしたか)
土岐氏の重臣で、明応5年竹ヶ鼻城から加納城へうつる。
長井隼人正道利
(ながいはやとのしょうみちとし)
豊後守の子で、はじめ竹ヶ鼻城におり、後に関の城主となる。
不破権内綱村
(ふわごんないのつなむら)
土岐・斎藤氏に仕え、後に織田信長に仕える。不破郡府中城と安八郡西ノ保城、竹ヶ鼻城は同族で、美濃の三不破といわれた。


~天正12年(1582)
不破源六広綱
(ふわげんろくひろつな)
綱村の子で、後に織田信雄(おだのぶかつ)に仕えた。
城の設備や町作りにも力を入れた。天正9年八剣神社を現在の位置にうつした。また、天正の初め頃に本覚寺を創立した。
天正12年6月10日秀吉の水攻めにあい城を明け渡し、伊勢長島に去る。
天正12年(1582)~
天正13年(1585)9月
一柳伊豆守直末
(いちやなぎいずのかみなおすえ)
水攻めで竹ヶ鼻城を攻め落とした秀吉は、家臣の一柳を城主とし、伊豆守に任じた。
天正13年9月4日に大垣城(15,000石)に転じ、同15年に本巣郡軽海城(50,000石)へうつる。
天正13年(1585)9月~
天正18年(1590)

伊木清兵衛忠次
(いきせいべえただつぐ)
秀吉の家臣、池田輝政(岐阜城主)の家老伊木が城主となる。
天正18年(1590)~
文禄元年(1592)
森寺清衛門
(もりでらせいえもん)
天正18年、池田が三河国吉田城へ、伊木が同国田原城へ国替されると、今尾城にいた森寺が城主となる。
文禄元年(1592)~
慶長5年(1600)
杉浦五左衛門重勝
(すぎうらござもんしげかつ)
文禄元年、織田秀信が岐阜城へ入り、その家臣杉浦が城主となる。杉浦は信長、信雄に仕え、浅野城(一宮市)に11,000石を領していた。
慶長5年8月22日、関ヶ原の前哨戦で落城し自害した。

間島太閤山(まじまたいこうやま)
 天正12年(1584)5月、豊臣秀吉が一夜堤を築いて竹ヶ鼻城を水攻めにしたとき、付城(戦闘指揮所)とした小丘です。高さ6メートル、巾40メートル四方でしたが、現在は取りこわされて畑となっている。
 昔、この小丘には清水の湧き出る井戸があり、日照りが続いても枯れなかったといわれている。この付近からは古武器類も発掘(はっくつ)されているという。太閤山が史跡として、市の文化財に指定されている。

 間島太閤山跡

大浦寺砦(おおうらてらとりで)
 弘治2年(1556)4月、斎藤道三とその子義龍との間に不和が生じ、親子が長良川を夾んで相戦うこととなった。道三の女婿であった織田信長のもとに救援の要請があった。信長は手勢の兵を率いて早速美濃に向かった。途中尾張の国中島郡の大浦寺砦に陣を布いた。
 天正12年(1584)4月29日、羽柴秀吉は長久手の戦いで思わぬ敗戦を喫し、矛先を織田信雄居城の長島城攻撃に向けようとして、犬山の戦線を離脱して大浦城に入り、2日間にわたって作戦を練り、5月1日に至り、犬山で織田徳川軍に対峙していた10万の全軍に羽島方面への反転を命じている。

本覚寺(ほんがくじ)
 永禄元年(1556)尾張国春日郡三淵村下津、正眼寺八世玄沢祖栄の創立で、当初は天台宗でしたが後に曹洞宗に改めました。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで竹ヶ鼻城落城の折、焼けてなくなりました。安永3年(1774)再び火災に見舞われましたが、天明6年(1786)本堂を再建しました。
 本堂の絵天井と永田佐吉翁の墓は、県の文化財に指定されています。

本覚寺絵天井

八劔神社(はっけんじんじゃ)

 創立年代はくわしくわかりませんが、以前当町の西端字須賀の内元宮にあったのを、天正9年(1581)、時の城主不破源六広綱が城の鬼門除けとして現在の地に移した。
 現在の建造物は、元禄7年(1694)10月宮大工大橋忠衛門、葺師奥平金衛門などの手によったもの。神社正面の欄間をかざる「波に兎」の彫刻は左甚五郎の作と伝えられている。
 拝殿の天井絵は、平成4年ごろに地元の画家たちにより描かれたものが掲げられている。


八剣神社絵天井

一夜堤(いちやづつみ)
 天正12年5月、秀吉による竹ヶ鼻城水攻めの際に造られた堤で、高さ6~7間(約10.8~12.6メートル)、巾14~15間(約25.2~27メートル)。竹ヶ鼻城を中心に北は間島から西へ半円を描いて、松山、本郷、各村をまわって、南は江吉良で逆川堤に接続する、長さ約2.6キロメートルの長堤です。

竹鼻町今町

市営斎場前

羽島郵便局前



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水攻めの足取り

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