第一のルートは、先ず起宿から出立し、起宿・金刀毘羅社前から対岸の新井村の川原に達するルートが「定渡場」と称し、渡船を降り川原を通って大浦村・金比羅神社前を通過するのが、通常の美濃路街道のコースであり、船橋河戸(ふなばしごうど)を通過した徳川将軍や朝鮮通信使など、特殊な立場の人物以外の、士農工商による身分差別に関係なく、江戸時代には大多数の人達が利用した。 | |
① 定渡場 大浦・金比羅神社 |
①定渡場 起・金比刀羅社 (天保年間の建立・愛知県指定文化財) |
宮河戸(みやごうど) | |
起河湊(おこしかわみなと)には金比刀羅社前の「定渡場」の下流にある大明神社前に「宮河戸」と呼ばれた湊があった。 ここは、主として荷物の揚げ降ろしを業務とした湊であり、笠松湊を最上流の湊として、木曽川を上下する大型船の、物流の中継拠点としての機能を果たしており、特定の場合以外は人の渡河には使用されなかった模様である。 |
①-1 宮河戸(起・大明神社)愛知県指定文化財) |
起川渡し石灯台 | |
この新井の堤防上にある石灯台は、明和7年(1770)に建てられたもので市・県の文化財指定(史跡)を受け、龍公美(たつきみよし・彦根藩に仕えた文学者)の漢詩が刻まれている。 往時、竹鼻上町に伊勢屋という屋号の印刷屋があって、その先祖に力士がいた。その力士がある夜、起村から渡船で木曽川を渡り、竹鼻へ行くため新井の堤防へ上がろうと思ったが、暗くて道も方角も分からず大変難儀をして帰宅した。このため堤防の上に石灯台を寄付し旅人や船頭の用に供した。 また、その油代確保のため、田三反(約30a)を当時の庄屋清水九右衛に寄付したと伝えられ、その後昭和35~36年頃に行われた土地改良事業以前まで「灯明田」と呼ばれた田が存在し、大正10年(1921)の台風まで「灯明田」示す標柱が立っていた。この土地改良時点では山田為三郎の所有となっていたと記録されている。 この石灯台については、大正9年1月の写真が残されているが、当時は旧木曽川堤防の外側に在ったことがうかがえる。(この写真の前方中央に小さく見えている木立のあたりが、美濃路起渡・定渡船を揚がった美濃側船着き場からのルートが通っていた。) 当時この石灯台は渡船を降りて来る人々に、竹鼻に通じる道を知らせていたものであり、昭和31年 (1956)濃尾大橋がかけられたときに現在位置(150m程西方にあった)に移動して復元された。 |
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②起川渡し石灯台(濃尾大橋北約50m) |
旧堤上の石灯台(大正9年1月撮影) |
船橋河戸(ふなばしごうど) | |
第二のルートは、三ッ柳から起・大明神社前と起本陣の中間点に達するもので、「船橋河戸」と称し、船橋の架設位置に当たっていた。 この船橋は、主として将軍の上洛や朝鮮通信使の通行の際に利用され、江戸時代の慶長12年(1607)から明和元年(1764)までの間に18回架設されたが、日本最大級の船橋であった。 船橋の規模 長 さ 約450メートル 幅 約 3メートル 使用船 270艘以上 |
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船 橋 図 ③起宿と三ッ柳村を結ぶ船橋(起町史下) |
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美濃側の船橋河戸跡は当時の旧堤の雰囲気の残る三ツ柳集落(羽島市)の中にある。 | |
船 橋 跡 の 碑 | |
③(三ッ柳・羽島市) |
③(起宿・一宮市) |
長い間渡船に頼っていた起渡も、濃尾大橋(昭和38年(1963)3月)が開通によりその役目を終了した。 |
医師講中の道しるべ | |
大浦金比羅神社から西200mで街道は右折するが、その直前の左側にある個人宅の門の前に石の道しるべが建てられている。 碑文は「右いせみち、左おこし舟渡、寛延三庚午年(1750)、医師講中」とある。 これは昔、江戸の御典医が旅の途中、起宿で倒れて亡くなった。その医師が残していった、路銀の処分を託されたこの辺りの医師達が相談して、建てたものだと伝えられている。 |
④医師講中銘の道しるべ |
大浦金比刀羅から不破一色一里塚 |
七間の松跡 | |
医師講中道しるべから右折したこの辺りは、かっての木曽川の旧堤防があり、見事な松並木の街道であった。道幅が七間もあり「七間の松」と称されていた。松はいずれも巨木で、めおと松、てんぐ松、しぐれ松、五本松、ごくらくま松などと名付けられ親しまれていた。 現在は堤防は平地となり住宅地と化している。 |
⑤七間の松(昭和8年(1933)6月撮影) |
大浦の子守地蔵 | |
⑥ 大浦の子守地蔵 |
七間の松並木道であった辺りの美濃路を直進して、右手の小高い位置に秋葉神社の赤い鳥居が見られたら、まもなく道路が二叉路に分かれる正面に、間口一間半奥行き三間ほどの板壁の地蔵堂があり、内側に子どもの衣装を着けた地蔵が祀られている。 地蔵の周りには子どもの無事成長を祈り、また成長したお礼に寄付された綺麗な子どもの衣装が掛けられている。昔はこのような風習はなかったといわれているが、地元同士で結婚して母親となった女性が寄付したものだと云われている。最近は子ども会が引き受けている模様である。 堂のそばには、「右起道左笠松墨俣道」「嘉永元年(1848)」と刻む道標が立っている。往事の美濃路は、この地蔵堂を過ぎるところから木曽川の旧堤を離れ不破一色の集落に入っていく。 |
不破一色一里塚跡 | |
この辺りより300mほど北に進むと右側に正木小学校がある。この西門の手前に「一里塚跡」の標柱がある。かっては直径9m高さ3mの土盛りが両側にあった。 この正木小学校は、明治30年(1897)の町村の統廃合により正木村が生まれ、それまで大浦と新井にあった小学校が統合されて、この場所が新しく学校敷地となり、小学校側の一里塚の土盛りは学校建設時に取り壊されたものと思われる。 また、反対側の土盛りは昭和10年代初め頃まで姿をとどめていたが、現在は当時の面影は全くとどめていない。 |
⑦ 正木小学校にある一里塚跡 |
一里塚から及び端 |
及が橋石灯籠と及ケ橋 | |
及が橋石灯籠 | |
街道は、一里塚を過ぎると緩やかなS字カーブを描きながら田んぼの中を進み、やがて須賀の集落に到着する。この辺りは昭和30年代初頭まで輪中堤も残り、街道沿いには松並木も見られたが、その後の開発ブームにより輪中堤防とともに取り払われ、松材は伐採され住宅の建材などに使用されてしまった。 この先に在る足近川(現在・松枝排水路)は昭和初期まで、出水すると氾濫をおこしかねない水量があった流れで、出水時の交通は渡船により維持されていた。美濃路が水没したときに利用するためにと、この先の南宿村に対し渡し船2艘が江戸幕府道中奉行から預託されていた。 一里塚から1Km程進んだところにある2つめの信号の5m左手前には、「金比刀羅山大権現」と刻まれた「及が橋灯籠」(文政9年(1779)6月建立・昔は輪中堤防上の松並木の間にあった。)が民家の間にひっそりと建っている。 この灯籠は出水時の渡河の安全を願って、旧輪中堤防を乗り越える美濃路街道西側に地元の人によって灯籠が建てられたものである。 |
⑧ 及が橋石灯籠 |
及が橋 | |
⑨現在の及が橋 |
この灯籠の先150m程のところに名鉄須賀駅があり、更にここより50mのところの、足近川が流れ、ここにかかるのが及が橋(江戸時代は、土橋で長さ16m幅3.6m、)である。 その昔この近くを「鎌倉街道」が通っており、足近川の支流「及川」に架けられていた「及が橋」が、江戸時代になって街道が美濃路に付け変わり、橋の位置が0.9㎞程下流に変わっても、鎌倉街道の頃の名称が引き継がれている。 |
及が橋から坂井の道標まで |
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⑩西方寺への道標 |
及が橋を渡り100m足らずで道路が交差するが、左南宿の家並みの間へ入る一番狭い道が美濃路である。 南宿の集落に入り400mほどで右手に寺田山西方寺(羽島市で最古の寺)を案内する大きな石造の道標が見えてくる。 |
この向かいに古い門構えの家がある。これが起宿と墨俣宿の中間に在る「間の宿」(あいのしゅく)(加藤酒店・現在廃業)と呼ばれ多くの諸侯も休憩した「小休所」であり、十六枚の休息札が保存されている。 | ⑪間の宿 |
阿遅加神社(あじかじんじゃ) | |
美濃路は、この先200mで岐阜南濃線と交差し、その先は足近町坂井まで街道は水田の中に姿を消しています。 そこで、丁字路の交差点(岐阜南濃線)を右に進み次の信号交差点を左折し、700m進むと「延喜式」式内社の「阿遅加神社」(道端に看板あり・祭神・日本武尊)の鳥居が右奥にあり、社殿は更に400m奥の境川(天正14年(1586 )以前の木曽川)堤防沿いに鎮座している。 この阿遅加神社は足近十郷(足近輪中内の村々)の惣社であり、境内に雨石があって、農業用水が十分機能しなかった昭和二十年代までは、雨乞いに参拝する人も多かった。 (かって美濃路はこの鳥居の直前に通過していた。) |
⑫阿遅加神社 |
坂井の道標と辻地蔵と鎌倉街道 | |
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昭和30年代に実施された土地改良事業によって、美濃路の道筋が消滅したが、阿遅加神社の鳥居200m西にの辺りから、右手に向かって坂井の集落の間に姿を現し、境川左岸堤防に登る坂の途中に、「親鸞聖人御旧跡」の西方寺まで「従是東五丁」と刻まれた道標と、その脇に「右笠松 西方寺道」「すぐ
墨俣 大垣」と刻まれた2体の辻地蔵が見えてくる。 この境川左岸堤防は中世の鎌倉街道であり、標識の「西方寺」の前をとおりそのまま東へ向かっている。 美濃路はこの堤防上で鎌倉街道と重複する区間となる。 |
⑬鎌倉街道(上の道 左手の坂道は美濃路) |
小熊一里塚から小熊川渡まで |
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小熊一里塚 | |
この地点より西に1Km進むと東小熊の一里塚があり、堤防の上に石の碑が建てられている。このあたりは街道が境川堤防を利用しているが、この境川は古代中世の木曽川の本流であって、美濃の国と尾張の国境であった。常水時の川幅は 36m余であるが、堤と堤の間は12倍以上の広い幅をもっており、この辺り、いにしえの大河の風格を残し、天武1年(672)壬申の乱以降、天下分け目の政権争奪の度に登場し、合戦も何回か行われた場所でもある。 |
⑭小熊一里塚 |
秋葉神社と太神宮 | |
そのまま堤防道路をさらに西に進み、やがて右に「小熊・高桑線」を越え直進すると、堤防上右側に大きな紅葉があり、その下に太神宮と刻む石灯籠と秋葉神社が祀られている。 この神社については特に伝説はなく、普通ならば氏神の境内社とされるところ、水害に関わりがあったのか堤防補強のために祀られたのではないかとも云われている。 さらに西にしばらく進むと、美濃路街道は堤防から右へ下り、その先丁字路を右折すると境川橋に到達する。 |
⑮秋葉神社と太神宮 |
小熊川の渡し |
境川は往事「小熊川」と呼び、この渡河には定渡船一艘に船頭七人があたり、大きな行列の通行には船橋が架けられた場所である。 美濃路は現在の境川橋より50m程下流でを通っていた。これより岐阜市茶屋新田の集落を経て長良川を渡った対岸が墨俣宿である。 |