円 空
 近世畸人伝は円空が亡くなっておよそ90年後に書かれた書物である。それによると円空は「美濃の国、竹ヶ鼻という所の人也」と書かれている。さらに、「幼きより出家し、某寺にありしが23にて遁れ出、富士山に籠り、また加賀、白山に籠る」とある。
 円空(1632年~1695年)は、江戸時代の仏僧であり、彫刻家でもあった。生涯12万体を誓願し、行くさきざきで仏像を彫っては各地を行脚した修験者であった。
 円空の旅先は、西は三重県、滋賀県、東は栃木、宮城、秋田、北海道まで足跡を残している。当然、岐阜県や愛知県には円空仏が多く残されている。
 円空仏には、人を慈しんでいる優しさが顔面に滲み出ている。いわゆる「円空仏の微笑み」である。仏の道を説き、人々に仏を敬う心を育ませる一方で、仏や神の魔力で人々の苦難を救おうとした。
そして、元禄8年(1695)7月15日〔うら盆の日〕、彼が再興したといわれる関市弥勒寺近くの長良川畔で入定した。時に円空64才であった。
 羽島市は円空生誕の市であり、円空仏が多く残されている中観音堂の脇に、円空が産湯を使ったという「井戸」が残されている。円空仏は市内から60体発見されている。
 現在も市内には円空顕彰会があり、毎年、県内外から現代の円空彫りに挑戦する人たちが訪れている。市内には円空通りがあり、現代の円空さんの作品をみかけることができる。

中観音堂

 円空は寛永9年(1632)羽島市上中町中に生まれ、幼き頃から出家して某寺にいたが、23才の頃出奔して流浪の旅に出たという。やがて伊吹山修験の大平寺に身をよせ、白山禅定、富士山禅定などをこころみ、12万体の仏像の彫成を発願するに至ったという。
 
 寛文6年(1666)北海道に渡り、ついで東北をめぐっていくつかの円空仏を残し、同9年の頃、郷里の中観音堂の本尊11面観音立像(222.0センチ)をつくったと推測される。この11面の像の背面には「鉈が入っている」というくりぬきの跡があるが、誰も見た者はいない。
 
 堂内に祀る円空仏の殆んどは、この11面の像と共につくられている。いずれも上質のヒノキ材で、鬼子母神聖徳太子や、神像と弁財天などは、対のような感じで彫られている。これらの像はいずれも表面がなめらかに彫られていて、ひたすら古典を迫ったとされる円空初期の特徴を示している。
 
 これらの像に対して、二体の護法神と一体の金剛童子だけは全く作りがちがう。円空は寛文11年法隆寺に修学し、延宝3年(1675)奈良県大峰山の修験道場をめぐっており、その頃から独特の荒けずりの彫法を生み出したと見られているが、こうした時期に位置づく作品であろう。
なかかんのんどう

中観音堂(岐阜県指定文化財)
羽島市上中町中538
℡(058)398-6264



中観音堂の本尊11面観音立像
   
 円空のたった一体しか遺っていない伝、鬼子母神立像である。甚だ珍しい作である。この像と南無太子像は同高で、母と子の対のような感じを与える。  日本の釈迦として鎌倉時代から信仰が特に盛んになった童形二才の聖徳太子像で、上半身裸身、下部に裳をつけ合掌した通様の姿を円空もまたこれに従って造った。然し、個性が強い独自の造形である。 

産湯の井戸

 円空上人は寛永9年(1632)美濃国中島郡中村のこの地に生まれた。17体の円空仏を祀る観音堂とその周辺は中屋敷と呼ばれ、どの家も小さな円空仏が護持されている。
 しかし、生家については確証がなく、ただこの加藤正義家の井戸跡が「円空上人の産湯に使われた井戸」として昔から語りつがれてきた。
円空上人産湯の井戸

産湯の井戸
   

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