翁は「家門に誇りを、カネには無欲で」という父の遺訓をよく守り、村民からは「イシンさま」と呼ばわれ慕われた。「イシン」は医師であった祖父や曽祖父が、為信と名乗ったことによる。
 当家は、竹鼻城主不破源六の末裔と伝え、翁は重厚な家構えの自宅を、不破城と自負していた。また、広い庭にある東屋(あずまや)は「洗心」と呼んでいた。
 翁は風雅な人で、数多くの詩歌や絵を短冊や色紙に残した。雅号は如水で、特に好まれた字は「夢」と「舞」であった。 
 
 

 昭和21年復員したばかりの翁は、岐阜の画展で異様なスケッチ画を見つけ「これは何か」と思わず声を発してしまった。そこに居合わせ堀氏は、「これは枯死寸前の今の淡墨桜です」と説明した。堀氏はかつて豪華な淡墨桜の屏風画を手がけた、岐阜芥見出身の日本画家であった。
 国の天然記念物の一大事と思った翁は、医者仲間の岐阜の前田氏と相談し、すぐに根尾の現地へ向かった。前田氏は盆栽の根接ぎの名人といわれた人で、調査の結果、根接ぎで回生手術ができると確信された。
 翌年、翁地元村長ら有志と顕彰保存会を設立し、岐阜丸物百貨店に堀画伯の「淡墨桜の屏風画」を展覧して、募金活動を行い、20万余りを集めた。
 その翌年3月、前田氏は職人らの協力を得て、238本の根接ぎを行い、淡墨桜の回生に成功した。
 その20年の後、また淡墨桜は枯れかけたが、この時は作家の宇野千代らの呼びかけがあり、全国的な関心を呼んで、本格的な国・県・村による整備事業が実施され、見事に回生されて現在に至っている。
   
   
   
   

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